事実は表現されない。

書き手が現実のことを書いているのか、架空のことを書いているのか、文章を読んだだけでは分からないのに、それをどうしたら区別できるのだろう。
文章表現には、色々な目的がある。事実を伝える、意見を述べる、楽しませる、騙す、怖がらせる、など*1。読み手は、文章がどのような意図で書かれたのか判断する必要がある。


文章が書かれている背景が、その判断の基準の一つになる。大手新聞社のサイトに掲載されている記事は、事実を伝えるための文章だと考えられる。
一方、虚構新聞に掲載されている記事は、似ているが、そうでないことが予想される。
4月1日に公開された文章は、どこかに嘘があると疑って読まれる。小説に書かれたものは、まず、架空のものだと考えられる。


しかし、背景による意図推測は外れることもある。嘘は9割の真実の中に隠されているかも知れない。書き手は、読み手がどのように判断するかを推測して、その裏を掻くように文章を構成することが出来る。
引用によって、背景から切り離されることにより、その意図が隠されることもある。そのつもりがなくても、不適切な引用は唐突さと誤解を招く原因になる。


もう一つの判断基準は、読み手の知識である。背景から、事実を述べている文章だと考えられても、書き手の主張が入り込んでいるかも知れない。架空の話でも、事実を元に書かれていることもある。
もちろん、知識を持ってないと、この判断ができないので、初めて読む分野の文章では上手く行かない。後になって真意が読みとれるということもある。

このような判断は、文章自体から行うことはできない。文章の中に現れるのは、文章の構造と象徴だ。
普通の文章では、ほとんどの象徴が大域的なものとして扱われる。つまり、背景によって意味を規定される。
その中に、一部の象徴が狭域的に定義されるが、その定義には、大域的なシンボルが使われる。


問題は、この判断の基準が動的に変化するということだ。文を読み進める度に判断基準が変わる。一行前の文章が今の文章の背景になる。その解釈によって知識が変わる。
あとで判断がひっくり返されることもある。それなのに、ある程度一貫した基準を持って意図を読みとれる、というのは、暗黙の了解があるからである。


……あとで主張を分けて書き直さなくちゃね。

*1:まとめれば、読み手(あるいは社会)の意識を変革するということに集約される。ここでそれをいうと話を進められないが。