世界と象徴

人の認識は統一されている。一つの「ワールド」がそこに在るように感じられる。しかし、漠然と世界を認識しているだけでは、何も発展性はない。ドラッグ*1を使って、あるいは悟りを開いて、世界の統一を見て、全てを理解したように感じても、そこに発展性はない。


人の認識は統一されていながら、同時に分析することにも長けている。人は「シンボル*2」を使って世界を認識する。
シンボルは人間のネイティブな分析の道具である。だから、統一されたワールドと不整合があってはならない。ここで一つの葛藤が生じる。ワールドの統一性を重視するか、シンボルの分析性を重視するか。人間はそのバランスを取って認識をしているため、通常は、純粋なワールドや純粋なシンボルで認識することはない。


純粋なワールドを認識するには、最初に書いたように、ドラッグを使ったり、悟りを開けば良い。シンボルによる分析的な思考を止め、統一感に身を委ねれば、純粋なワールドを体験できる。シンボルによる認識よりも、ワールドによる認識の方が原始的なので、シンボルによる認識の方が先に機能を停止しやすいので、こうしたことが可能である。ただ、恐らく、ワールドによる認識も低下しているので、機能を低下させる方法はあまり好ましくない*3。逆に、認識の機能を高めると、やはり優位なワールドによる認識が優先される。一瞬の判断が要求される場面では、シンボルによる認識が追いつかず、ワールドの認識だけで作業をする。この感覚は一瞬だけだが、こちらの方が原始的な認識に近いように思われる。


純粋なシンボルを認識するのは、人間には難しい。認識ではワールドが優先されるので、純粋な分析を人は体感できない。そのかわり、分析は認識の外で行うことが可能である。シンボルは分析的なので、可搬性がある。一つ(あるいはいくつか)のシンボルを、ワールドとは独立した存在として考えることが出来る。しかも、そうしたシンボルの集合を、人間は別のワールドとして認識することができる。


ここで、元々人間が持つワールドを単にワールドと呼び、切り離されたシンボルによって形成されたワールドをレルムと呼ぼう。このレルムに存在するシンボルは最早ワールドとは結びつけられていない。人間の感じる統一感の外にある。このことにはメリットとデメリットがある。


レルムの最大のメリットは、他の人間と共有することが可能であることだ。レルムを認識するのに、ワールドを仮定する必要はない。声に出してでも、文字にしてでも、相手にシンボルを伝えれば、相手もレルムを認識することができる。また、同様に未来の自分もレルムを認識することができる。ワールドによる認識は一度きりの体験だが、レルムによる体験は何度も繰り返すことができる。


レルムのデメリットは、レルムの定義そのままで、ワールドによる統一感から切り離されていることである。ワールドは、認識の統一感を維持する維持する機構だが、レルムはその恩恵を受けられない。レルムを認識している限り、「分からない」部分が存在する。「分からない」というのは、分析を試みているのに、分けることができないという感覚である。ワールドはそもそも分けようとしていないので、分からないということはない。分からないものがあると、ワールドの論理によって分かるようにしようという動きが起こる。この状態は、意識にとって非常に不安定であり、辛い状況である。レルムは認識による苦悩を引き起こしてしまう。人によってはレルムを無理に「分かろう」として、ワールドの方を分けてしまうこともある。


レルムは、認識の中では異質な存在だが、だからこそ必要である。ワールドからレルムに変換し、レルムからワールドに変換し直して、統一されたシンボルの世界を認識する。これは回りくどいように思えるが、実は合理的な認識の方法である。統一性と分析性は相反するものであるので、このようなやり取りを通さないと上手くこなすことができないのだ。


つづきはそのうち。

*1:酒やタバコを含む

*2:シンボルが最も意識されるのは言葉なので、シンボルのイメージが掴めない人はとりあえず言葉だと思ってもらいたい。

*3:悟りに関しては、機能を低下させる方法と高める方法の、どちらもあるようだ